在りての厭い、亡くての偲び
- 意味
- 身近にあるときにはその存在を疎ましく思い、いざ失ってしまうと惜しみ、懐かしく思うという人間の心理を表した言葉。
用例
日常のありがたみを感じられずにいるときや、失ってからその価値に気づくときに使われます。
- 両親が健在なときは文句ばかり言っていたけど、今はもう会えない。在りての厭い、亡くての偲びとはよく言ったものだ。
- 古い街並みが再開発で取り壊された。なくなってから名残惜しんでも遅い。在りての厭い、亡くての偲びだね。
- ペットの鳴き声がうるさいと思っていたけど、いなくなって寂しくてたまらない。在りての厭い、亡くての偲びが身に沁みる。
身近な存在への感謝や思いやりを忘れないようにする自戒としても用いられます。
注意点
この言葉は、誰にでも思い当たるような経験を端的に表しているため、多くの共感を呼びやすい一方で、他人に対して使う場合には慎重に扱う必要があります。たとえば、失った人の悲しみに寄り添うべき場面でこの表現を使うと、「生前にもっと大切にするべきだった」と責めているような印象を与えてしまうおそれがあります。
また、「あのとき大事にしておけばよかった」といった後悔を込めて使われる場合が多いため、慰めの言葉としてよりは、過去を顧みて次に生かすための警句として使うのが適しています。
自分の失敗や反省を振り返る文脈で用いれば、謙虚さや思慮深さを感じさせる表現になりますが、他者の行動を評価・批判するために用いると冷淡に響くことがあるため、注意が必要です。
背景
「在りての厭い、亡くての偲び」は、日本人の感情に深く根づいた心理的傾向を端的に表した言い回しであり、古くから伝えられてきた言葉です。直接的な文献の初出は明らかではありませんが、江戸時代以前の口承や随筆、説話集などで、類似の感覚がたびたび語られています。
「在るときには疎ましく思い、失って初めて大切さを知る」という心の動きは、東洋に限らず西洋の文学や哲学、宗教的教訓などにも通じる普遍的なテーマです。たとえば、日本の仏教的な思想の中では「諸行無常」や「有為転変」などと共に、身近なものへの執着や無関心から生じる後悔の念が強く説かれてきました。
家庭や人間関係だけでなく、風景や習慣、文化などの「当たり前の存在」が消えてしまって初めて、その大切さに気づくという感覚は、近代化や都市化が進んだ日本社会でもたびたび話題になります。特に戦後の復興期や昭和から平成への価値観の変遷期には、家族の絆や地域社会のつながりが薄れていく中で、この言葉の意味が一層重みを増したと考えられます。
また、文学作品や歌謡、演歌などの歌詞にもしばしばこの感情が反映されており、愛する人や郷里、過去の自分などへの思慕を語る中で、「あのときもっと大切にしていれば」という後悔の気持ちが強調されます。
現代においても、SNSや日常会話などでこの言葉が引用されることがあり、特に喪失感や別れをテーマにした場面ではしばしば目にすることができます。それは、何かを失ったときにこそ初めて「日常の価値」や「当たり前のありがたさ」に気づくという、人間の根本的な心理に訴える力があるからです。
まとめ
「在りての厭い、亡くての偲び」は、人は身近なものにほど慣れてしまい、その価値に気づかずに過ごしてしまうという、人間の性を映し出した言葉です。そして、失ったときにようやくその存在の重みを知り、懐かしさや後悔とともに思い出すのです。
この言葉が胸に迫るのは、誰もが一度は似たような経験をしているからにほかなりません。親、友人、恋人、故郷、習慣、健康など、日常の中に埋もれているかけがえのない存在を、今あるうちに丁寧に見つめ直すことの大切さを教えてくれます。
目の前にあるものの価値は、失われてからでは取り戻せません。「在りての厭い、亡くての偲び」とならないためにも、当たり前の中に潜むありがたさを感じながら生きることこそが、心豊かな暮らしにつながるのではないでしょうか。